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大阪地方裁判所 平成10年(ワ)4523号 判決 2000年7月18日

原告

甲野太郎

外三名

訴訟代理人弁護士

井上智雄

被告

乙川春男

訴訟代理人弁護士

服部廣志

主文

一  原告らの請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実及び理由

第一  請求

一  被告は、原告甲野太郎に対し、一一七八万〇四五六円及びこれに対する平成九年九月五日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  被告は、原告甲野一郎、同甲野二郎、同甲野三郎に対し、各三九二万六八一八円及びこれに対する平成九年九月五日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二  当事者の主張

一  原告の主張

1  被告(昭和二九年四月二日生まれ)を加害者、甲野花子(昭和七年一二月四日生まれ。以下「花子」という。)を被害者とする下記のとおりの交通事故(以下「本件事故」という。)が発生した。

発生日時 平成九年九月一日午後九時五〇分ころ

発生場所 大阪府枚方市大峰南町<番地略>先交差点(以下「本件交差点」という。)

事故態様 信号機により交通整理の行われている本件交差点南側横断歩道上を西から東に横断歩行中の花子に、同交差点を西から南に右折しようとした被告運転の普通貨物自動車(以下「被告車」という。)が接触し、花子を転倒させたもの

被告の過失 交差点を右折する自動車運転者には、右折する方向の横断歩道上を横断する歩行者の有無を十分に確認するべき注意義務があるにもかかわらず、被告はこれを怠り漫然と横断歩道を通過しようとしたことにより本件事故を発生させた。

2  本件事故の結果、花子は急性硬膜下血腫、脳挫傷の傷害を負い、平成九年九月五日に死亡し、以下の損害が発生した。

(一) 逸失利益

一五三四万四四二五円

平成八年六四歳女子労働者平均賃金

三〇一万一九〇〇円

就労可能年数 九年

九年に対応する新ホフマン係数7.278

生活費控除率 三〇パーセント

3,011,900×7.278×(1−0.3)=15,344,425

(二) 慰謝料

二五〇〇万〇〇〇〇円

(三) 葬儀費用

一二〇万〇〇〇〇円

(四) 原告らの休業損害

一六万〇〇〇〇円

原告らは、それぞれ一日一万円の収入があるが、本件事故から花子死亡までの四日間休業した。

(五) 交通費 四万四〇〇〇円

花子の妹と姪が高知から来阪した費用

(六) 弁護士費用

二一四万〇〇〇〇円

(七) (一)から(六)の合計

四三八八万八四二五円

3  自賠責保険から原告らに対し、二〇三二万七五一三円が支払われた。これを前項記載の損害額合計から控除すると残金は二三五六万〇九一二円である。

4  原告甲野太郎は花子の夫であり、その余の原告らは花子の子である。前項記載の残金を法定相続分に従って分割すると原告甲野太郎の相続額が一一七八万〇四五六円、その余の原告らの相続額がそれぞれ三九二万六八一八円となる。

5  よって、原告らは、被告に対し、自賠法三条及び民法七〇九条に基づき、不法行為に基づく損害賠償として前項記載の各金額及びこれに対する不法行為後の日である平成九年九月五日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  被告の主張

被告の経験した事実は以下のとおりである。

被告が、平成九年九月一日午後一〇時ころ、被告車を運転して本件交差点を西から南に右折しようとしたところ、同交差点南側に設置されている東西方向の横断歩道上に老婦人(後に花子と知った。)が倒れているのを発見した。被告は、横断歩道東端に被告車を止め、同女を抱きかかえて同交差点の東南角にある中華料理店の前に運び、通行人に警察と救急車を呼ぶように依頼した。

以上のとおり、花子は被告が本件交差点に到達する前に何らかの理由で転倒していたものであり、被告車が花子に衝突した事実は存在しない。すなわち、原告らの主張する「本件事故」は発生していない。

第三  当裁判所の判断

一 本件全証拠によっても、被告車が花子に衝突したと認めることはできず、他に被告による被告車の運行と花子の傷害及び死亡の間に何らかの因果関係を認めるに足りる証拠も存在しない。その理由は以下のとおりである。

1  花子の外傷(甲五〜七)

花子の外傷は、アスファルトの路上に転倒した際に生じたと考えられる後頭部の挫傷と左手掌部の内出血だけであり、自動車との衝突・接触を窺わせる外傷は一切存在しない。

2  被告車の損傷、衝突の痕跡(甲一二、一三)

(一)  被告車には、車体の凹み、塗装の剥離等の人間その他の物体との衝突・接触を窺わせる損傷は一切存在しない。

(二)  枚方警察署司法警察員警部補O及び同巡査Eが、平成九年九月一日午後一〇時三五分ころから午後一一時五分ころまでの間に本件交差点付近及び被告車の実況見分を行っており、両名が同年同月三日付けで作成した実況見分調書の「加害車両の検査」欄には、「衝突部位にあっては、車両右側面ボディ部(車両右前端より1.50〜1.65メートル部)に払拭痕が認められた。」と記載されている。そしてO及びEは被告に対する刑事事件の公判において上記払拭痕について、埃を拭ったような跡が鮮明に残っていたと証言している。

しかしながら、右払拭痕を撮影した写真は上記実況見分調書には添付されておらず、その点についてEは撮影に使用したカメラが故障していたためであり、撮影に失敗したネガは切断処分したため存在しないと説明する。

しかし、カメラの故障自体それほど頻繁に生じる事態とは考えにくい。その上、Eはカメラの故障に平成九年一〇月二〇日に再度実況見分をした際に気づいたと証言しながら、その後カメラを修理しておらず、結局カメラはEが証言した翌日である平成一一年六月二五日に修理に出されたことになっている。そうすると、上記カメラは故障が発見されてから約一年八か月間も故障したまま放置されていたことになる。しかし、枚方警察署の交通捜査係には三台しか備品のカメラがないとのことであり、交通捜査上カメラの使用頻度は高いと考えられることからも、カメラの故障についてのEの説明と修理の経過には不自然さを覚えざるを得ない。

また、本件では被告車の損傷などがなく、物的証拠が薄弱であることは捜査の初期から明らかだったはずであり、有力な客観的証拠となるべき払拭痕を撮影したネガを、たとえ撮影に失敗したとしても簡単に廃棄処分にしてしまったということも容易に信用しがたい(しかもネガのうち、払拭痕を撮影したという部分だけが切断処分されており、保管方法の妥当性にも疑問を感じる。)。

逆に、被告は、検察官及び警察官の取調べに対しても刑事事件の公判においても、警察官は擦ったような跡があると言ったが、その跡を指し示してもらっていない、警察官は写真は撮っていないと一貫して供述している。また、実況見分に立ち会った被告の妻も現場でフラッシュが光った記憶はないと供述している。

このような証拠関係からすると、そもそも払拭痕を撮影したというネガの存在自体、すなわち払拭痕の撮影の事実自体に疑問を持たざるを得ない。

以上のとおり、払拭痕の存在を基礎付ける証拠は実況見分調書の記載とこれを作成した警察官の証言しかなく、これらを裏付ける客観的な証拠が欠如しており、しかも欠如に至った事情について合理的な説明がなされていないことになる。

当裁判所としては、実況見分調書の記載と警察官の証言だけに基づいて払拭痕が存在したとの事実を認定することには躊躇せざるを得ない。すなわち、払拭痕の存在を認めるのに十分な証拠は存在しないといわざるを得ない。

(三)  さらに、車体の払拭痕は人が車体に寄りかかるなどの日常的な接触でも生じうると認められるところ、上記払拭痕が存在したという位置は、Eの証言によれば「運転席ドアの後ろ、後部のスライドドアの開閉部の、それよりわずか後ろぐらい」とのことであるから人や物が接触する機会も多く、払拭痕が生じる可能性も大きい位置であると思われる。まして、被告は、被告車を自己の営業するうどん類の製造販売業の荷物運搬用にも用いており、運転席への人の乗降や後部スライドドアからの物品の出し入れは少なくないと推測される。

加えて、花子の着衣、皮膚等から被告車の塗料や被告車から転移したと考えられる埃が検出されたとか、逆に被告車から花子の着衣の繊維が検出されたとの捜査報告、鑑識結果等は存在しない。

また、そもそも払拭痕が存在したという位置も被告車の右側面であり、前方に花子が倒れているのを発見したという被告の供述と一致しない。

これらを合わせ考えると、仮に実況見分調書記載どおりの払拭痕が被告車に存在したとしても、それが花子との接触によって生じたものと断定することもできない。

3  本件交差点で発見されるまでの花子の行動(甲五、一二、一三)

花子は、平成九年九月一日午後八時三〇分ころ、自己の快気祝い(花子は二、三週間前まで入院していた。)の品を渡すために訪問していた近所の知人宅を退出したが、その後本件交差点に至るまでの経路は不明である。本件交差点は花子の自宅から徒歩数分の距離にある。また、本件交差点付近に花子が快気祝いの品を入れていたと思われる空の百貨店の袋が落ちていた。

このような花子の行動及び本件交差点と知人宅、花子の自宅の位置関係等からすると、花子が本件交差点で転倒しているところを発見されるまでの経過について、以下のように推認することも可能である。

花子は午後八時三〇分ころ知人宅を退出した後、自宅への帰途につき、その途中で本件交差点にさしかかった。知人宅から本件交差点までの所要時間は証拠上必ずしも明らかではないが、退院後間がない高齢(六四歳)の女性である花子が徒歩で訪問できる程度の距離にあることからして、知人宅が一時間以上もかかる場所にあることは考えにくい。

すると、花子は午後九時五〇分よりも相当前に本件交差点付近に到達していたとも考えられる。すなわち、花子は午後九時五〇分より前から何らかの理由により本件交差点に転倒していた可能性は否定できない。

もっとも、花子発見後間もなく実施された実況見分によれば、本件交差点の南北方向の交通量は、三分間に八台とされていることからすると、被告が本件交差点に至る前になぜ花子が他の者によって発見されなかったかについて疑問は残る。しかし、夜間であるため発見が遅れたこともあり得るし、仮に被告以前の発見者がいても、その者が関わり合いになることを恐れて何らの救助、通報をしなかった可能性もあり得る。上記疑問は、必ずしも花子が被告によって発見される前から転倒していた可能性を否定するものではない。

4  本件交差点で発見された後の花子の言動(甲五〜七、一二、一三)

花子は、本件交差点で発見された直後から救急車によって病院に搬送された後少なくとも平成九年九月二日午前〇時三五分ころまでは意識があり、通行人に自宅の電話番号を教えて電話するよう依頼したり、被告、原告太郎、警察官、医師、看護婦らに対して「頭が痛い」「おしっこしたい」などと訴えたりしたが、被告車に衝突されたとか、何らかの意味で被告を非難するような内容のことを訴えた形跡はない。

なお、花子はその後意識がなくなり、同日緊急手術を受けたが、翌三日脳死状態となり、九月五日に死亡した。

5  被告の言動(甲一〇〜一四、乙一)

被告は、原告太郎などに対し、花子が死亡するまでに数回謝罪の言葉を述べている。

しかし、自己の運転する車の進行方向に人が倒れているのを発見し、しかも飲酒運転(酒酔い運転ではない。)をしているという負い目があった被告が、動転して咄嗟に自車が衝突したのではないかと思い込んで謝罪するということは十分理解できる。被告が謝罪した事実から、被告が花子に自車を衝突させた事実を認めていたものと決めつけることは相当ではない。

他方、被告は、刑事事件の捜査の当初から公判の最終陳述まで一貫して、人に衝突した感触はなく、衝突音も聞こえなかった、覚えているのは花子が倒れているのを見たことだけである旨の供述をしており、単に罪責を逃れるために虚偽の弁解をしているとも思えない。

被告に対しては、平成一一年一二月一六日に禁錮一年六月、執行猶予三年の第一審判決が宣告され、右判決は被告が控訴権を放棄したため確定している。原告らは、被告が刑事の有罪判決に納得したからこそ控訴権を放棄したのであると主張する。

しかし、無実の確信を持っている者であっても、刑事被告人という立場にあること自体が社会的・精神的負担となることから、第一審判決が執行猶予付であればあえて控訴しないという選択をせざるを得ない場合も現実には考えられ、被告が有罪判決に対して控訴しなかったからといって責任を認めたものと一概にいうことはできない。

6 以上のとおり、結局、被告車が花子に衝突・接触したことを認めるに足りる証拠は存在しない。他に、仮に接触はなくとも、例えば被告車の出現に驚いて花子が転倒したなど、被告の行為に起因して花子死亡の結果が生じたことを示す証拠も存在しない(もっとも花子が被告車の出現に驚いたとしても、それだけで被告に過失が認められるわけではない。)。

原告らとしては、被告に責任がないとするならば、いかなる理由で花子が転倒したのかという疑問を当然持つと思われるが、その点については証拠上不明であるといわざるを得ない(花子自身が自分で足を滑らせるなどして転倒した、歩行中何らかの発作に襲われて転倒した、第三者又は他の自動車により転倒させられた等様々な可能性が考えられるが、証拠上認定することは不可能である。)。

二  結論

以上のとおり、原告らの主張する交通事故の発生自体が認められない以上、自賠法三条によっても、民法七〇九条によっても被告に対する損害賠償請求を認める余地はないものといわざるを得ない。

よって、原告らの請求を棄却することとする。

(裁判官平野哲郎)

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